2007年04月25日

爽やかな都田の風D〜企業城下町に生まれて〜

【爽やかな都田の風D〜企業城下町に生まれて〜】2004.5.13


HondaFCのホームタウンである浜松市は、言わずと知れた国内有数の企業城下町である。

ヤマハ・スズキ・本田技研・河合楽器製作所・浜松ホトニクス等‥

人口57万人の地方都市である浜松は、「楽器とオートバイの街」として、上記の大企業と、更には多くの関連企業・下請け会社が存在しているのである。

HondaFCは日本リーグ時代からアマチュアとしての立場を貫いているが、実は一時期だけJクラブへの移行の動きがあった。
97年の旧JFL時代、本田技研(当時)は、コンサドーレ札幌・川崎フロンターレ・東京ガス(現FC東京)らと共に上位をキープし、それらのクラブと共に、市民が中心となってJ加盟の機運が盛り上がった。
そして市民の署名を16万名集め、親会社である本田技研も、運営に直接関与しないことを条件に切り離し(クラブ独立法人化)を了承し、自治体の判断を待つのみとなった。

しかし、この動きは競技場などハードの条件などが揃わず、破談になってしまう。
新スタジアム建設、遠州浜球技場の改修都田の改修‥
これらの案は予算や自然保護という名目でいずれも実現しなかった。

この背景としては、理由の一つは浜松市が県庁所在地でない一地方都市であるが故に財源が厳しかった点、そしてもう一つがそれを支援すべき浜松財界の、複雑な思惑があったと言われている。

何しろ、(本田技研以外の)他企業からみれば、ライバルメーカーを母体としたクラブがJクラブになれば「浜松」の名を公然と名乗ることになるのだ。
当然、大企業各社の足並みが揃うことは難しく、市議会などの政治の場や市役所等の行政に通じている財界での反対運動は、大企業が呉越同舟の状態で林立しているこの街にとっては当然のようにあったのである。

Jリーグ加盟のクラブを見ると、当初は日本リーグでの企業チームを母体として出来たクラブが中心で、その後の京都・福岡・札幌のように地元経済界が積極的に動いてJクラブを立ち上げ(誘致)したところもある。

しかし、HondaFCのJ加盟の機運が盛り上がった97年は、時期も悪かった。
バブル景気やJブームは去り、浜松から鳥栖に活動拠点を移した鳥栖フュチャーズ(旧PJMフュチャーズ)は前年末に事実上倒産し、更には同県勢の清水エスパルスも経営危機を迎えていたのである。

浜松の財界は、Jクラブ創設に二の足を踏んだのは仕方がないのかも知れない。特定の企業を指すことは極力避けたいが、ジュビロに出資しているヤマハ以外の浜松の大企業の中で、最も財界に力があると思われるスズキの後押しが無かったことは、残念ながら致命傷だった。

言わばJの人気の「底」の時期に加盟運動を起こした事が、このクラブのJ加盟にとっては、かなりの不運だったと言える。

しかし、あえて逆の視点で考えてみよう。
HondaFCはこうした逆風の中を潜り抜け、日本リーグ(JSL)一部の企業としては唯一存続アマチュアとして活動している稀有なクラブなのである。

サッカーどころの静岡県は清水・藤枝等の中部エリアが最も盛んであるとされているが、浜松を中心とした西部エリアも浜松JFCを中心とした少年サッカー・浜名やクラブユースを中心とした2種サッカー、そしてジュビロ・ホンダの2企業チームを中心とした1種サッカーも当然盛んである。
人材としても高校進学と同時に清水などに移った武田の例からも、浜松出身の好選手は決して少なくないのだ。

おそらく、HondaFCが浜松のクラブでなければ、早急に自治体の賛同を得てJリーグ入りを果たしていたのかもしれない。
あるいは、浜松以外の、サッカーというコンテンツの魅力が希薄なエリアがホームタウンであれば、企業活動の本業を優先し早々と撤退という選択肢を選んだでいたのかもしれない。

浜松であるが故にアマチュアに拘り、浜松であるが故に企業名を前面に出した地域密着の運営スタイルが確立されたとも言える。

正に、今のHondaFCは、「企業城下町」という浜松の特殊事情が生んだクラブなのである。

(2004.5.13記述)
posted by 東山米鈍 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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