2007年04月25日

爽やかな都田の風B 〜歴史を刻むプレート〜

【爽やかな都田の風B 〜歴史を刻むプレート〜】2004.5.5


都田サッカー場のメインスタンド裏の通路の壁には、年度別にHondaFCの歴代の選手・スタッフ達の名前が書かれたプレートが貼ってある。

試合前後やハーフタイムで約30ほどのその小さな白いプレートを、じっと興味深く眺めている観客は、意外なほど多い。

黒崎久志・北澤豪・長谷川祥之・ロペスワグナー・石川康・本田泰人・勝矢寿延‥

現在日本の3部リーグに当たるJFLに所属しているHondaFCであるが、このプレートに刻まれた名前を見る限りは現在のJ1クラブに匹敵する。 特に平成元年〜3年にかけては、上記のような元日本代表選手やその後Jで活躍する選手の名前が多く在籍していたのである。

そして、プレートに書かれているのは選手だけではない。
宮本征勝(故人:元鹿島・清水)・山田松市(現湘南)・関塚隆(現川崎)・今井雅隆(元福岡)・柳下正明(現札幌)‥
その後Jの監督を経験した(今シーズンを含む)多くの指導者の名前もある。

ここに刻まれている歴代選手・スタッフの名前は、このクラブの持っている特異な歴史を、実に雄弁に物語っているのである。

HondaFC(当時本田技研)は1971年創部、75年日本リーグ2部昇格、81年一部昇格、以降91〜92年の最後の日本リーグまで、日本のトップリーグを堅持し、多くの代表を排出した。
1992年、Jリーグ参加を断念した為、当時の2部にあたるJFLリーグに組み込まれた。そして、それまでチームの主力だった選手の多くはこのチームを離れ、鹿島アントラーズ等のJクラブに移籍していった。

その後、92〜97年旧JFL(2部に相当)に所属し、99年にJ2開設に伴い新JFL(3部に相当)に移行して今に至っている。

メキシコ五輪の三年後の71年に創部したHondaFCは、その後順調に県西部リーグ(5部)→県リーグ(4部)→東海リーグ(3部)→日本リーグ2部(2部)→日本リーグ(1部)と駆け上がり、厚生福利・帰属意識向上・広告宣伝などを目的とした典型的な企業チームとして確固たる地位を獲得していた。

この70年代から80年代はまさに企業スポーツ全盛時代であるのだが、オートバイ・自動車を本業とする本田技研は、会社の成長と共にサッカーにも力を入れ、ヤマハなどの同業他社の大企業チームと、言わば「企業間の代理戦争」という強烈な動機を礎にして、チームを強化していった。

しかし、90年代に入ると、日本のサッカー界は急激にその流れを変える。
周知のとおり、「Jリーグ」というプロ化の波が押し寄せ、他のライバル会社が次々とプロ化する中、企業スポーツのスタイルを固持した本田技研は、日本サッカーのトップシーンから姿を消すことになる。
そして、一度も(成績での)降格を体験していないにも関わらず、アマチュアに拘るが故に、1部リーグから2部リーグ、そして3部リーグと、所属するリーグのカテゴリーを徐々に落としていった。

日本サッカーの潮流に逆行するような、このHondaFCの特異な歴史は、ある意外な副作用を生んだ。

本拠地であるこの都田サッカー場を80年代の当時の日本のサッカーのトップシーンの雰囲気を今に伝える貴重な場とさせているのだ。

過激なサポーターもミーハーファンも存在しない、この都田サッカー場こそが、今の日本のサッカー場の中で、最も「日本リーグ」の雰囲気が残っている場なのである。   
(2004.5.5記述)
posted by 東山米鈍 at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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